2011年2月26日土曜日

今日もつぶやいてみた。

うわ、プロフィールビューの概算が、999!

そんなに私の自己紹介欄開いても、
何も有益さわの情報は載ってませんよ。
そのうち何か、自己紹介載せようかなぁ・・・。

2011年2月25日金曜日

モンスター患者と呼ばないで

医大定期外来。
診察が終わり、次の外来予約日を
「4月1日は?」と訊かれたので、
「あ、エイプリルフールだ」
と言ったら、
少し考えてから、予約日を変更された。

この前は、「えー、クリスマスイブに会うのが先生~?」
と言ったら、予約日を変更された。


これじゃあ私、ただのモンスター患者じゃないですか。


違いますよね、先生。
その日が年度の変わり目の日で大変だってことに
今、気づいただけですよね?
私のひと言のせいじゃないですよね???
ねぇ、先生ってばぁ!!

冬眠からお目覚め気分

真冬の間は、生活が世捨て人ならぬ
「世捨てられ人」な感じで、
マメに来るメールといえば、
エロスパムメールくらいだったのだが、
ここ最近、なぜか急に相談メールが相次ぐ。

あぁ、まだ世間から忘れられてなかったのね、私。
人間ってきっと、ウサギ以上に
さみしいと死んじゃう生き物のような気がする。

今日は、カメラマンの奥山さんから、
「仕事で、お願いできないだろうかという案件があり云々」
というメール。
え、それはもしかして・・・



私にモデルの依頼?



広大な雫石の自然をバックに、
一人孤高に佇むアラフォー女性の美しさを
ぼかぁ、写し取りたいんです的な!

いや、だめよそんなの。
無理無理、私には荷が重いわ。
ここは、いくら尊敬するカメラマンの奥山さんの
依頼といえども、きっぱりとお断りをしなければ。
だって私は裏方の女。撮影はお断りよ。

などと脳みそが壊れたことを考える余裕もなく、
奥山さんから、急ぎで人探しの相談。
急きょ、会って話の概要を聴くことになる。


同い年で妻子持ちの、才気溢れる
凄腕カメラマンとカフェで待ち合わせをし、
一緒にケーキセットを食べて楽しげに語らう
(自称)敏腕プロデューサー。


これだけ読むと、ここから
素敵で切ないメロドラマ(←死語)でも展開しそうだが、
実際は、大量のめんどくさい書類を前に、
奥山さんの毒舌とネガティブ言動を楽しむ夕べ。
相変わらず奥山さんは、
巷に出回っている写真や文章と、
本人とのギャップが違いすぎて面白い。

奥山ファンよ、騙されるな!

2011年2月14日月曜日

ツイッターじゃないけど、つぶやく 5

原稿も送信したし、チョコも食べたし、
そろそろ帰ろうかな。
しっかし、風邪が治らないなぁ。

ツイッターじゃないけど、つぶやく 4

南キャンの山ちゃんBotのツイート(Yamasato_bot)が最近好きだ。
(本人のツイート(YAMA414)も面白いけど)。

と、思っている時点で「お笑い好きな女子」じゃなく、
オタクなネット住人男子みたいな好みだ。

しかし山ちゃんって、いつの間に、
世間的な「ブサイク芸人」イメージから
「ブサイクだけど才能のある芸人」
という評価に変わっていたのだろう。
油断していた。面白い。

本人のツイートのほうで交わされている、
受験に失敗して落ち込んでいるフォロワーへの
粋な返事に、
時々、惚れそうになる。

ツイッターじゃないけど、つぶやく 3

店員さんにもらったチョコを食べ、
ドリンクバーのホットココアを飲み、
無駄にバレンタイン男子力が増強する38歳女子。

ツイッターじゃないけど、つぶやく 2

カウンターの店員さんに、
「今日はバレンタインデーなので・・・」
と、チョコをもらった、なう。

ツイッターじゃないけど、つぶやく

誰もが浮かれてカーニバル
彼氏のハートを射止めて
OH BABY LOVE ME DO

・・・な日なのに、
感劇地図の編集後記の原稿書きのために
ネットカフェにいる私って、いったい。

さて。

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彼女のリクエストをかける。
エルヴィス・プレスリーの「グッド・ラックチャーム」。
この曲が終わったらあと1時間50分、
またいつもみたいな犬の漫才師に戻る。
ご清聴ありがとう。


「風の歌を聴け」 (村上春樹/講談社文庫)

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2011年2月4日金曜日

書こうかどうか悩んだのですが。

いつもふざけたことばかり書いておりますが、
そして、そんなブログでありたいと思いながら
常々書いておりますが、
今日はそういう話ではありません。

そういう話を求めてうちのブログにいらした方、
ごめんなさい。
これは、現在の自分の思考として記しておきます。


先日、ネットニュースで、
「人体の不思議展」の遺体の展示に
精神的苦痛を受けたとして、
大学教授が主催者に慰謝料を求める
民事訴訟を起こしたという記事があった。

最初は、またどこかのめんどくさいクレーマーな団体が、
めんどくさい事を言い出したのか
と思い読み始めたのだが、
どうもそうじゃないぞ、ということに読みながら気づいた。
ネットで検索してみると、多くの問題が出てくる。
(特にここにはリンクを貼りませんが、興味のある方は
「人体の不思議展」で検索してみてください)

実は、私も岩手で行われた企画展を見に行っている。
2年半くらい前だろうか。
ずいぶんと話題になったから、
行った人も多いのではないだろうか。

その時は、学術的な意味合いを持つ企画展という認識で
特に何という疑問も持たず出かけたのだが、
なんというか、鑑賞中ずっと違和感があり、
その違和感を拭いきれないまま帰ってきた。

当時は、単に私がグロテスクな物が嫌いで、
こういう展示物に興味がもてないからなのだろうと思い、
まあ、でもきっと意義のある展示で、
本来ならばもっと、思うところがあるべきものなのだろう、
そんな感想をもてなかった私は、
こういうところの感受性が鈍いんだろう。
と思い、ブログに書き記すこともなく
その事をこの記事を見るまで忘れていた。

展示内容というのは、献体を受けた遺体を、
それまではホルマリン漬けしかできなかったのを、
最新技術を使って樹脂加工処理を施し、
本物の遺体を人体模型として展示物としたものである。

プラスティック模型でもなく、
彫刻作品でも、蝋人形でもマネキンでもない。
言ってしまえば、本物の死体展示である。

死体だから、嫌だ。
というのともまた違う(もちろん気味悪いが)。
あの時の私の違和感はなんだったのだろうと
この一連の記事を読み、記憶をたどってみたのだが、

もし、私が献体をして、こんな晒され方をされるのは嫌だなぁ。

という感覚を思い出した。
つっこんで言えば、「遺体に対する畏敬が感じられない」。
容赦なく人体を輪切りにしたり、変なポーズをとらせたり。
私はその企画展で見た記憶はないが、
男女の標本に性行為をさせているものもあるらしい。

重ねて言うが、展示物は
模型でも、彫刻でも、蝋人形でもマネキンでもない。
本物の人間の死体である。

あと、こんな元気で若い人たちの献体が
こんなにたくさんあるって、どういうことなんだろう
というのも不自然に思った。
子供や妊婦もある。

と、いうことすらこの記事を読むまで忘れていた。

今、問題視されているのは、
これらの遺体が本当に
「献体の意思を確認できている死体か不明である」こと。
中国の政治犯、宗教弾圧者の刑死遺体を
使用しているのではないか、
もしかしたら、需要に応じて死刑をしていたのではないか
という疑念もぬぐいきれないということである。
中国には大規模な標本工場もあるという。
だとしたらこれは、
ユダヤ人虐殺の歴史と同じなのではないか。

もし、その時にいくらかでも疑問を持って、
ネットで調べていたら、これだけ多くの人たちが
既に疑問を持っていたことがわかったのに。
知らなかったとはいえ、動員と収益に
迂闊にも貢献してしまったことに、
ここのところずっと、たまらなく不快感を生じている。

もちろんこれまでに、歴史の勉強で、
多くの異端とみなされた科学者たちが
宗教裁判にかけられたり、
優れた裸婦像が非難されたり、
杉田玄白は「解体新書」には、
処刑された罪人の腑分けが大いに役立った
というようなことを学んできている。
また、必ずしも、従軍画家の描いた戦争画が、
作品として優れていないというわけではない。

また、標本技術と展示のみの話に則して言えば
「じゃあ、ミイラの展示はどうなんだ」とか、
「ガンジス川には遺体が始終浮かんでいるし、
高地では風葬という宗教観もある」
「遺体そのものに関する感覚は、国によって違う」
というような意見もある。

宗教倫理と歴史、そして学術と芸術というのは、
時として、その時点で相反するものでもある。
その時点で正義だったものが、
歴史を経て非難の対象となる場合もある。
反社会性やアナーキズムにまとう芸術性が、
その時代に受け入れられない例は、枚挙に暇がない。

だからといって、全ての事象を、
「表現の自由」「知る権利」の名の下に
受け入れていいのだろうか、
ということに対しては、
厳しく自分を律していきたいと思う。
そういう思考も含めての感性の柔軟性を持っていたい。

表現の自由はとにかくなんでもかんでも
守られなければならない、
ということのみに拘泥するのは、
逆の意味で思考停止の不自由な感性であると思う。
そこをもう一歩踏み込んだ想像力が必要だ。
そして、その上での表現の自由を訴えたいと思う。

少なくとも、私はこの展覧会は非常に不愉快である。

もしかしたら、今後事件の解明が進み、
大どんでん返しがあるかもしれない。
今のところは、なんともいえない。

だとしても、

たとえこの標本技術が、将来的に優れた技術として
大きく評価される時代が来たとしても、
今現在の私は、この感覚を忘れないでいたいと思う。