2009年12月25日金曜日

毎年、年賀状の宛名はみんな手書きです

クリスマス当日の、バイトの休みを入れる。
きっとイブにステキな夜が。
とうとう、さわのさんに春がやって来たのね。
と、バイト先で思われてるかどうか定かではないが、


医大の定期外来日である。


そして昨日は、バイト帰りに
駅で久しぶりにバッタリ会った、
高校時代からの友人Mに、
「今から、ヒマ?」と言われ、女二人で飲みに。
(イブの夜に「今から、ヒマ?」と訊く友も友である)
今日の夜は、八時の芝居小屋制作委員会会議。


さわのさん、まだまだ冬将軍到来中です。


まあ、せっかくクリスマス当日に
お呼ばれ(←診療に)されたので、
ちいさなクリスマスのお菓子セットを持参するも、
クリスマスちゅうより、もう気分は年末よね。

さわの 「先生、来年の年賀状はどこに出せばいいんですか?」
A孫子 「え?」
さわの 「“しんけっかん・じん・ないぶんぴつないか”ですか?」
A孫子 「ああ(笑)、それでいいよ」
さわの 「医局名もなんですか?」
A孫子 「医局は“じゅんかんき・じん・ないぶんぴつないか”
     だね」
さわの 「長いんですけど!! 宛名手書きなんですけど!!」


岩手医科大学附属病院 心血管・腎・内分泌内科
もしくは、
岩手医科大学附属病院 循環器・腎・内分泌内科

長い!!! めんどくさい!!!
昔は「第二内科」とか「循環器内科」で良かったのに・・・。


(※ちなみに、“財団法人盛岡市文化振興事業団”
・・・って書くのも長いんですよ、M浦さん!)


さわの 「先生、ふだんは循環器センターにいるんだから
      循環器センターに出しても届きません?
     (斜め向かい)」
A孫子 「今あそこ、センターじゃないんだよ」
さわの 「えっ!」
A孫子 「“岩手医科大学附属循環器医療センター”」


こっちも長い!!! そして画数が異常に多い!!!


さわの 「・・・ていうか、センターじゃないですか」
A孫子 「いや、独立したセンターじゃなく、
      岩手医大の附属施設に変わったの」


シロウトにはさっぱり違いがわかりません。


さわの 「今度入院するような事があったら
      わけわかんなくなりそうですね」
A孫子 「大丈夫(笑)、入院しないから」


何気ない会話だったが、そういえば最近、
お医者さんに「大丈夫」って言われることが
無くなったなぁと新鮮に感じた。
「インフォームドコンセント」の時代だから、
何をするにも想定されるリスクばかり念を押されてから
承諾書にサインさせられるものね。
なんか病院で「大丈夫」って、
久しぶりに聞いた気がする。

「こないだ『大丈夫』って言ったじゃないか!」
なんて訴訟起こしたりしないから、
お医者さんにはしょっちゅう
「大丈夫」って言葉は言って欲しいなぁ。

ま、その前に、入院しないうちに年賀状準備しないと。

2009年12月19日土曜日

来年の運勢は、12点満点中の3点らしい

18:00からは、盛岡のミニコミ誌「てくり」さんの、
忘年会に声を掛けられていて、
大慈寺町の十一代目源三屋へ。

(おなじみ、てくりさんのサイトはこちら。↓)
http://www.tekuri.net/

なんだかんだで実は、
てくりさんの発行記念イベントの時に、
トークセッションにも出演し、
その年の忘年会にも来ている私。

今、ネットで見てみたらそのイベントが2005年6月。
かれこれてくりさんとは
4年半のお付き合いのようである。
すごいなぁ。

その間、てくりさんは全国的にも知名度の高い
人気うなぎのぼりなミニコミ誌に成長し、
いろんな人に、「ナゼ、てくりにさわのさんが・・・」
と言われるワタクシでございますが、
皆さん、創刊号から最新号までじっくりと、
てくりを読み返してみてください。


めちゃめちゃ、マニアックですから!(笑)


そのマニアックさ(?)が、人気のヒミツなんですな。
そして、そのマニアック琴線に触れてしまったんですな。
きっと。

まさかねぇ、私も盛岡ことばで「赤いスイートピー」を
うっかりブログに載せてしまったがために、
ここまで友人知人見知らぬ人にまで、
声を掛けられる2009年というものは
想像してませんでしたよ。

会場では、出席していた占い師さんに
占ってもらったところ、
「来年はもっと人脈が広がります」
と言われてしまった。

正直、もうそんなに知り合い増えなくていいです・・・。
最近、顔と名前が一致しない症候群です。
私のキャパはもう、いっぱいいっぱいです。

今日いきなり、公会堂の沢村さんの
作品展会場でばったり会ったときに、
「今日、てくりさんの忘年会あるんだけど行かない?」
と声を掛けたら、これから仙台の
オープニングパーティーに出席予定
だっていうのを蹴ってまで、
「てくりさんの忘年会!? 行きたい!!!」
といって、ツマのはまさんと一緒に参加した直也くんには、

「さわのさん、マニアックな肩書きの知り合い
かなり網羅してるじゃん。
書家や民謡歌手からコンテンポラリーダンサーまでさぁ。
あとはもう、地元スポーツ選手しかないんじゃない?
ステラミーゴとか」

と、言われる。

あー、その方面は確かに全く未開拓。
いや、だからもう、人脈は広がんなくていいって。
ほんと、あのね、意外と人見知りなんだってば。
プライベートは引きこもり。

でも、せっかくなので、
私の知り合いの薄い方面を考察してみた。


体育会系ね。
理系ね。
外国人ね。
(↑ 英語で話しかける外国人には、
「プリーズ スピーク ジャパニーズ」って言うからな)


で、これが全部総合されると
(↑ 混ぜなくてもいいじゃん)、


外国人宇宙飛行士


という個人的結論が出ました。
と、いうことで、来年の目標は、
「外国人宇宙飛行士とオトモダチになる」
ということに決定。
(シュミが草野球な外国人物理学者ってのもどう?)

ま、夢は大きくなきゃね。

いや、だからこれ以上
知り合い増えなくてもいいんだってば。

沢村さんの書のライブパフォーマンス

14:00に、岩手県公会堂で、
アートショウ2010プレイベントの作品展を行う、
書家の沢村澄子さんのアートパフォーマンスを観に、
公会堂の会場へ。
(作品展は、公会堂ギャラリー(2階)22号室で12月27日までです)

こちらは、盛岡経済新聞の情報紹介記事です。↓
(事前紹介なので、今回の作品は無いですが、
県立美術館で行われた「動物哀歌」の作品が載ってます)
http://morioka.keizai.biz/headline/601/

今回は、20畳くらい?(ぜんぜんわかんないけど・・・)の
会場の中心の床に大きな紙が敷かれてあり、
紙の四方には柱が設置されていて、
周囲を透明な巨大ビニルシートで覆っている。
(無菌室みたいな感じ?)
その中で、沢村さんが縦横無尽に書きまくるのである。

その気迫といったら・・・!!

もう、いつ沢村さんが倒れるんじゃないかと
ハラハラするような渾身の製作で、
軽いキモチで
「またやってくださいね~♪」
とは、とてもいえないレベルのパフォーマンスだった。

沢村さんの作品展に行くたびに思うことではあるのだが、
今回は本当につくづくと
「私は『動物哀歌』の舞台に、
とんでもない人に軽く声をかけたもんだ・・・」
と思わされてしまった。

会場には、『動物哀歌』の朗読で出演してもらった、
江幡さんと、狩野さん、
舞台美術の直也くん、はまさん(2007年版)、
同時開催の写真展(2006年版)の宍戸くんの姿も。

江幡さんは、午前中のIBCの「じゃじゃじゃTV」に出てたので、
つい、「あれ?! 午前中テレビに出てたじゃないですか!」
「あの後、大船渡から盛岡まで!?」
と、言ってしまったが、よくよく考えたら、


江幡さんの出演シーン、録画だったね。


放送は何でも生放送だと勘違いしてしまう、
昭和な私。

支社長になっても
相変わらずアナウンサー時代の
よく響くイイ声が変わらない江幡さんは、
全くのプライベートで観客で来てたのに、
ちょっと声を発するだけで、
すぐその存在が周囲にバレていた。

2009年12月12日土曜日

「ハシムラ東郷」盛岡公演終了

今日は、劇団燐光群さんの盛岡公演当日。
今年はなかなか制作協力のお手伝いのできないまま、
公演日を迎えてしまいました。

これから、名古屋、福岡、伊丹(兵庫)と、
まだツアーが続きますので、
お近くの方、知り合いがそのあたりにいらっしゃるという方は
是非、気にかけて下さい。
公演詳細は以下のサイトでご確認を。↓

http://www.alles.or.jp/~rinkogun/hashimuratogo3.html

客層ターゲットとしては、
社会学関係の研究職の方、
欧米に留学経験のある方及び、
国際交流関係に精通している方、
フェミニズムの歴史研究をされている方、
文筆業、読書好き、
そしてある程度「演劇手法」というものに慣れている方、
という辺りかと思われます。

東京公演前に台本を送っていただいて、
その後、改定台本まで送られてきて、

「すげー、改定前の
坂手さん(日本劇作家協会会長)の書いた
台本(戯曲集とかじゃなく)、今私持ってる!」

と、相変わらずのミーハー気分でいたのですが、
読んだら、その台本の難しいこと!
(台本というのは元々、読み慣れていない人には
とても読みづらいものでありますが)

なので、舞台を観ながらずっと、
「あー、あの台本がこんな風な舞台になったのね~!」
と、演出とはこういうものかと思いながら観てましたが、
初見でこの舞台を観る方は大変かも。

題材に興味のある方は、
帰りに、研究書の「ハシムラ東郷」を
買って帰られるのもよろしいかと思います。

それにしても、なかなか面白い題材ですよねー。
NHKあたりで、特集してくれないかしら。
「歴史ヒストリア」かなんかの番組で。

以下は、坂手さんが着想を得た、宇沢美子さんの本、
「「ハシムラ東郷 イエローフェイスのアメリカ異人伝」
(東京大学出版会)」
のasahi.comによる紹介記事です。↓

http://book.asahi.com/clip/TKY200811150161.html


ところで私が、燐光群さんの芝居で是非とも一度、
ナマで観てみたいのは、
「屋根裏」という作品です。
(燐光群さんによる、作品紹介はこちら。↓)

http://www.alles.or.jp/~rinkogun/yaneura2009.html

制作の古元さんに、以前にNHKで放送された時の、
作品をDVDでいただいたのですが、
それは、NHKのスタジオで収録したものなので、
舞台の広さの感覚が全然違うらしいんですね。

肴町の風のスタジオなどの、
小さな舞台で、役者さんの息遣いを直に感じながら
目の前で見るのが夢です。

今までに燐光群さんの舞台を観たことがないという方は、
燐光群の皆さんは、東京で年中芝居してます(?)ので、
機会があったら一度足を運んでみてくださいね。

きっと、3作品見たらクセになる、
盛岡じゃじゃ麺みたいな劇団です(笑)。

安仁屋さーん、今度は、ホール利用申し込みの時に、
ちゃんと古元さん(制作)について来るんだよー。

2009年12月11日金曜日

じゃじゃ麺とラブシーン

昨日の夜から劇団燐光群の皆さんが盛岡劇場入りし、
公演準備を始めている。
昨日も劇団の皆さんとの交流会があったようなのだが、
今日の飲み会の方だけ参加した。
(連日飲んでる皆さんは、ほんとにタフである)

会場は、盛岡劇場近くの大吉。

劇団の皆さんと盛岡演劇人15人程でわいわい騒ぐ。
よりどりみどり老若男女各世代揃って、
20代から50代まで、
年齢差は30歳くらいあるんじゃないだろうか。

演劇人だとわからないと、
何の集まりなんだろうと思われるに違いない。
(しかもスーツ着てるのは、
仕事帰りのTCTの遠藤くんくらいで、
皆、どことなくカタギな感じがしないし)

しかしそこは、演劇人の飲み会慣れしているお店。
注文する時は、「劇団さん」というカテゴリーで
どうやら認知されているらしい。

今年の2月に盛岡じゃじゃ麺の芝居を作った、
架空の劇団のくらもちさんは、
ジャージャー麺と盛岡じゃじゃ麺の違い、
そして、「じゃじゃ麺は、3度食べないとわからない」
事などを、麺好きらしい劇団の皆さん方に熱く語る。

(※ちなみにウィキペディアによる、
 盛岡じゃじゃ麺説明はこちら ↓)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9B%9B%E5%B2%A1%E3%81%98%E3%82%83%E3%81%98%E3%82%83%E9%BA%BA

盛岡じゃじゃ麺を知らない皆さんは、
「肉味噌がしょっぱい」「麺はうどんやきしめんみたい」
というモノが想像できないらしい。

もう、10年以上もの間、
何度も盛岡にいらしている作・演出の坂手さんでも、
盛岡じゃじゃ麺を食べた記憶は曖昧のようだ。

燐光群の俳優・猪熊さんは、
くらもちさんから盛岡じゃじゃ麺の本家、
白龍(パイロン)の開店時間が朝9時と聞き、
公演(14:00)前に食べに行きたいと言い出して、
盛岡の人間たちに止められる。

そりゃあ、にんにくが凄いからね。

ひとしきり、
「ラブシーンで相手の女優に迷惑をかけるぞ」
「いや、いっそのこと相手もじゃじゃ麺食べれば」
「そうか、それだとどっちもにんにく臭いからね」

などとみんなで盛り上がり、
そうだ、相手と二人で食べに行けばいいんじゃん、
という結論になったところで、
坂手さんが、猪熊さんに訊いた。


坂手 「で、お前、ラブシーンあったっけ?」
猪熊 「(とってもうっかりしたような顔をして)
     ・・・あっ、ごめん。そういや俺、
     この芝居で、ラブシーンなかったわ!」


この辺の掛け合いの絶妙さが、さすがである。

猪熊さんは次の日、果たして盛岡じゃじゃ麺を
食べることができたのだろうか。

是非とも猪熊さんには、
盛岡じゃじゃ麺がクセになるといわれている、
最低3回食べるまでは、
とりあえずこれからもずっと
来盛し続けていただきたいものである。

2009年12月8日火曜日

今年も燐光群がやってくる。

ご紹介が遅れましたが、今年も東京から、
劇団燐光群さんが、盛岡公演をしにいらっしゃいます。
今週末、土曜の二時です(←紹介遅いよ!)

いやぁ、まさかね、今年もいらっしゃるとは思わず、
昨年だけの出血大サービスだと思って、
昨年いろいろと金額下げて無理難題を言いましたら、
その値段で今年もいらっしゃることになり、


・・・・・ごめんなさい、燐光群さん!!!
(東京ではこんな値段では見られません)


ちなみに、昨年は主宰の坂手さんの盛岡公演宣伝に、
同行させていただきました。
その時のブログはこちら。 ↓

http://morioka-zsk.blogspot.com/2008_11_01_archive.html#2285668220936225857

毎回社会派で硬派な舞台を創られている劇団で、
主宰の坂手さんは現在、
日本劇作家協会会長を務めていて、
作品は、世界各国に劇団が赴き上演されています。
これまでにも様々な賞をとられている劇団さんです。
問題は、

軽かったり、お笑いだったり、
ど派手なミュージカルとかだったり、
ジャニーズや人気お笑い芸人が出てたり、

・・・ということが全くないため(!)、
手当たり次第むやみやたらな売り方ができないということです。
「ライオンキング」や宝塚、嵐のコンサート、
オードリーライブのチケットを売るのとはわけが違う!

内容は以下、公演企画書より。

********************

百年前、アメリカでもっとも有名な「日本人」は誰だったか。
おそらくそれは、「ハシムラ東郷」というコラムニストである。
主要な新聞雑誌に辛口のアメリカ文明批評を書き、
ハリウッド映画の主人公にもなった。

20世紀前半の数十年間、多くの米国人に愛され、
日本との開戦からは憎まれ、戦後は忘れられ、
米文学史の中で顧みられることもなかった。

ハシムラ東郷が登場したのは1907年、
ニューヨークの週刊誌「コリエーズ」への投稿の形を取った
コラム「日本人学僕の手紙」。
登場以来30年あまり、
永遠に35歳の日本人学僕(苦学生兼家内使用人)として、
「グッド・ハウスキーピング」など
アメリカの主要な新聞雑誌にコラムを書き綴った。

背景には、日本ではインテリ・上流階級でも、
アメリカでは「メード」のようにして生きなければならない
日本人留学生たちの姿があった。

連載は、わざと誤字脱字、誤訳、誤読、時代錯誤を織り交ぜ、
とんちんかんな東郷を笑う米国社会そのものが逆に批判され、
からかいの対象になった。
「職業」柄、東郷は白人中産階級の女性たちと関わり、
「問題ありの使用人」という道化師的な仮面の下から、
雇い主の主婦層のみならず、
家政学を通した鋭敏な社会批判を繰り広げた。

笑いの中に、辛口のアメリカ文化批評が展開された。
作家マーク・トウェインがこの連載を激賞、
1917年には日本人俳優・早川雪洲主演で
ハリウッド映画「ハシムラ・トーゴー」が作られた。

コラムには東郷自身の容姿についての記述がないが、
多くのイラストレーターが個別の東郷像を描いた。
「吊り目で出っ歯で丸眼鏡」「自分の価値観を曲げない、
卑屈であるが傲慢」といった
典型的な日本人観はここから生まれたとされている。

(以下略)

********************

どうです? 私は面白いネタ見つけたもんだなぁと、
思って興味深いし芝居も気になっているんですが、
一般的にはやっぱ、難しっぽいイメージですよね?
そうなんだよなぁ。
そこが宣伝の攻めとしても難しいんだよなぁ。

これを読んで興味をもたれた方、
もしくは、友人知人でこういう話が好きそうな方に、
ゼヒゼヒご紹介いただけますと幸いです。

こういうのは、盛岡および周辺で、
どういう人たちのツボなんだろう?
その辺も含めて個人的に興味深いところがあります。

以下、サイトと盛岡公演情報です。
うまく、こういう話が好きな方のもとに、
この情報が伝わりますように。

http://www.alles.or.jp/~rinkogun/hashimuratogo3.html


燐光群盛岡公演 「ハシムラ東郷」

日時:2009年12月12日(土) 2:00開演
会場:盛岡劇場メインホール

チケット:全席自由
前売2,700円  当日3,000円
大学・専門学校生/シニア(65歳以上)1,700円
高校生以下1,200円
(学生とシニアは前売・当日共通料金 学生は要証明書提示)

前売扱所:
いわてアートサポートセンター
プラザおでって
喫茶てあとる(盛岡劇場)
川徳デパート
大通佐々木電気

ご予約・お問合せ
◆TEL:03-3426-6294(燐光群/(有)グッドフェローズ)
◆E-mail:ticket-rinkogun@ee.alles.or.jp

2009年12月5日土曜日

「がんばって下さいね」と言ってくれた先生

新聞のお悔やみ欄で、高校時代に
生物を教わったM先生が亡くなったことを知った。
まだ、61歳の若さ。病気療養中だったらしい。

その亡くなった若さもだが、教わっていた当時、
まだ40歳くらいだったことにも驚いた。
もっとずっと年上の先生だとばかり思っていた。

うちは女子高で、理系に進む人間が
極端に少なかったので、
当時国立文系コースへ進む者は、
数学も理科も受験に必要ということから、
便宜的に「理系コース」とされていて、
こんなに理数がさっぱり分からないにもかかわらず、
私は3年間、数学の先生が担任だった
(全員違う数学の先生)。

M先生は、高二・高三とも、隣のクラス担任。
物静かで穏やかで、シャイな先生だった。
(先生の訃報について久しぶりに連絡をとった
高校時代の友人からのメールに、
「なかなか誰とも目を合わせようとしない、
シャイなM先生を思い出します」と書いてあった)
当時、校内の噂として、

「M先生は一年に一度だけ、もんのすごく怒る」

と、言われていて、「M先生が、○組で怒ったらしい」
という時は、そのニュースがものすごいスピードで
生徒たちの間を駆け巡り、
叱られた生徒は

「M先生が怒るんだから、よっぽどだよね」

と、誰にも同情はされないのであった。
(私の学年では確か、授業中に堂々と他の教科を
勉強していた一人の生徒が
よっぽど目に余ったらしいとの情報だった)

私は当時、中学時代までは国・英・社は
どうにかできていたが、
高校に入ったら、演劇部に入って毎日の部活と、
夏休み・冬休み・年末年始もないような日々で、
一年の夏休み明けくらいからは、
坂を転がり落ちるようというよりは、
崖から墜落するような学業転落人生を送っていた。

とはいえ、「この支配からのぉぉぉ~卒業~♪」
な反抗人生を送るでもなく、
見つからないように、目立たないように気をつけて
過ごしていたので、とりたてて先生方の
印象には残っていないタイプの生徒だったと思う。
生物の授業も、じっと息を潜めながら受けていた。

そんな生活だったので、大学受験は2度も失敗し、
2度目の不合格になった後で、
担任の先生などにご挨拶のために、
学校を訪れ報告をし、うらぶれた気分で独り、
家に帰るために来客用玄関へ向かって
足を進めていた。

玄関のすぐ脇には、金魚の水槽があった。
そこでM先生は、金魚にえさをあげていた。
その脇を、会釈しながら通り過ぎる瞬間に、
M先生は、こちらも見ずにぼそっと、


「がんばって下さいね」


と、私に声をかけた。
驚いて振り返ると、M先生は初めてこちらを見て
にこっと笑ってくれた。
私は、その日初めての笑顔をM先生に向け、
必死に涙をこらえながら校舎を後にした。

もうあれから20年近い歳月が流れ、
大学に落ちたくらいで人生が終わったような
気持ちなんて全く持たなくなってしまったけれど、
あの時のM先生の「がんばって下さいね」
という言葉は、私を今も
心のどこかを縛りつけている。

私は、「がんばれ」という言葉があまり好きではなくて、
他人に対して「がんばって」という言葉は、
なるべく他に使わずに済む言葉があれば、
そちらに置き換えて使うようにしている。
(それしか使う言葉が見つからないような時には使うけれど)

でも、あのときのM先生の言葉は、
今でも、仕事から帰る道すがらだとか、
休日に、街で信号待ちの瞬間とかに、
鮮明に思い出される。
そして、


「あぁ、私は今、がんばってないなぁ」


と、ほんの少し、
私の中の何かが揺さぶられる瞬間がある。


そう、私はまだ何もがんばってなどいないのだ。

2009年12月2日水曜日

日本救急医学会総会@岩手 非公認コラボエッセイ 2

昨年発売された、ほぼ日の健康手帳
「Dear DoctorS」
が、今年パワーアップして2010年版ができたので、
ネットで注文したのですが、(↓ 以下サイト)

http://www.1101.com/deardoctors/index.html

ついでといっては何ですが、
久しぶりに、バックナンバーも読み返していたら
色々面白かったのですけど
(前にも読んでいるはずなんだけど)、
その中で、以下の文章を見つけました。

********************

わたしは医師になる前に、アジア各地を放浪し、
いろんな地域の医療現場を見たり、
実際に働いたりしてきました。
そうした経験から、
わたしの信念になっていることなんですが、
なにもできないとしても、患者さんのそばにいることが、
医療従事者にとって、すごく大事だということです。
医学的にできることは、もうなかったとしても、
お医者さんにできることは、まだたくさんあるんですよ。

わたしは病院の医療安全管理室というところで、
トラブル事例にも接しているのですが、
憤っている患者さんやご家族、ご遺族というのは、
そのときお医者さんがいてくれなかったから、
あのとき看護師さんに声をかけたのに
立ち止まってくれなかったとか、
そういうことが、医療に対する不信の原点となっている。
そばにいてくれなかったというのが、
すごく大きな問題なんですよ。

ぼくは、技術偏重の医療者と
患者や家族が期待していることとが
すれ違いはじめているのではないかと、
そう思うんです。

(ホームページ「ほぼ日刊イトイ新聞」に連載中の、
「Dear DoctorS ほぼ日の健康手帳」
の中の「身近な医者の底力」シリーズ
「高山先生、新型インフルエンザについて教えてください。 7」
より、一部引用 ※以下引用したサイトのページ ↓)

http://www.1101.com/deardoctors/2009-04-14.html

********************

引用したのはほんの一部分です。
できれば全体を読んでいただきたいところなのですが、
引用してみたら一部だけでも結構長かったので、
あとは直接サイトへ飛んでください。

で、これで思い出した、というか、
前々からずっと私の中で
気になっていた思い出があるのですが、

私は1994年の6月に、初めて心筋梗塞を起こし、
救急車で岩手医大の救急センターに運ばれました。
この時が、これまで何度か発作を起こしているうちで、
一番大きくて、ものすごい発作でした。



なにがなんだかわからない状態で呻き苦しんで、
センターに運ばれると、
ざーっとお医者さんと看護師さんが集まってきて、
寄ってたかって(?)ものすごい勢いで
治療と検査をするわけである。

で、どうにか患者が小康状態になったぞ、
という事が明らかになると、
今度は一斉にそれらのスタッフが、
次の治療や検査の準備だとか、
今の治療や結果の確認のためだとかに、
別の場所へ各々散っていく。

今まで私の周りに群がっていた(?)人たちが、
そりゃもうすごいスピードで、
一斉に、一人もいなくなり、
だだっ広い治療室かなんかに点滴をつけたまま、
一人、わけもわからず取り残されるのである。


ここで初めて、ものすごい恐怖が襲ってくる。


なんかわかんないけど、助かったらしい安堵と、
これは一体なんなんだ?という混乱、
そんなところに取り残される強烈な孤独感。
もう、嗚咽どころじゃない、号泣である。
ああ、22歳の春。

と、そこに戻ってきた一人の若いお医者さん
(か、看護師さんか未だにわからない)が、
私が落ち着くまでずっと黙ったまま、
祈るような感じに手を握ってそばについていた。
けっこう長い時間だったように思う。

そして、私が少し落ち着き、
他の医療スタッフが、次の方針が決まって
わらわらと戻ってきたときには、
いつのまにか、そのスタッフの中に
紛れ込んでいってしまった。


あのお医者さん(か、看護師さん)が、
未だに誰だったのかわからない。


今と違って、昔は大きなネームプレートを、
首からぶら下げていたりもしないし、
特にきちんと改まって「私が主治医です」と、
全員揃って挨拶をしていた時代でもないし、
(してたかもしれないが、記憶が定かではない)
名前のわからないまま一般病棟に移るので、
短い1週間というCCU(集中治療室)滞在中に、
フルネームを知らない先生がいっぱいだった。
(ネットもない時代だし)。

今にして思えば、大事な救急治療中なんだから、
治療準備や診断が出来るんだったら、
私のそばにいるような時間的余裕はないはずである。
新人で救急に研修に来たばかりの先生だったのか。
だとすれば、当時20代半ばから後半くらいか。

本来であればその、私が手を握られてた間に、
私の治療のために奔走していた先生や看護師さん方が、
私が足を向けては寝られない、
一番の命の恩人な方々なわけで、
ほんとうに、ほんとうに申し訳ないことではあるのだが、

この時の、私の一番の思い出は、
この、泣いている間じゅう、
ずっとそばに寄り添ってくれていた
名前も知らない人なのである。

(その後、病室に心電図検査にもやって来たので、
私の幻覚ではなく、実在の人物であることは確かだ)。

とはいえ、今さら探し出して誰か判明し、

「あ。それオレオレ、俺だよ~~~ん」

などというノリの40過ぎオヤジが現れたりしても
私のウツクシイ思い出が壊れてしまうだけなので、
どうか、


探さないでください!!


お願いです。
私の清らかな思い出は、
どうかそっとしておいてください。

と、いうことで何が言いたいかっていうと、
「そばにいて寄り添ってもらう」ことの
凄さというかパワーね。

その後、何度となく入院しましたが、
なかなかこれ以上の
劇的な経験というのはそうそう無いです。
K地先生に入院勧められた時の
思い出といい勝負を誇ります。
(そういや、どっちも救急センターでの話だなぁ)


全くの個人的な意見なのですが、
ブラックジャックって実際リアルに近くにいたら
けっこうハラ立つと思うよ?

「お前に、そんな大金払うくらいなら、
断固として治療拒否してやる!!」

それより、こういう時にただ
そばで寄り添ってくれるだけの
普通の内科医というものを、
ぜひともクローズアップしていただきたいと、
常々思ったりするわけです。